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運動してもメンタルは強くならない

ちょうど1年くらい前にリングフィットを始めたのを皮切りに、ジャストダンスやったり、最近はフィットボクシングも追加したり。
ドナルドダックのようだったお尻がすっかりマライア・キャリーのモノマネ芸人を始めてもいいくらいには重力に逆らい始めました。(要はとにかく尻がでかい)
元々運動嫌いだった身にしては上出来レベルの運動習慣がついたと我ながら思っているのですが、この辺りでちょっと悲しい真理(少なくとも自分にとっては)に気づく。

タイトル通り。
運動してもメンタルは強くならない。

よく「筋トレしたらメンタルつよつよになったよ!みんなもやろう!」的な話を聞くけど、本当にそうなのだろうか?と。

でも抑うつ的な症状は確かに良くなる、と言う話。

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元々私が運動始めた動機はだいたい下記の通り。

  • ① 将来の生活習慣病が怖い 【将来の健康リスクへの対処】
  • ② 肩こりひどかった 【現状の不健康因子への対処】
  • ③ 運動すればメンタルが強くなると聞いて 【精神改造】
  • ④ あわよくば引き締まったかっこいい体になりたい 【肉体改造】
  • ⑤ 慢性的疲労感で何もやる気がしなかったのでエンジンをかけるため 【体力増強】


なので仮に③がダメだとしても今後運動を続けるモチベーションはあるのだけど…。

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運動したら確かにある面ではメンタルに良かった。
それは主に抑うつ的な症状から来るものに対してだと思う。

寝床から出られない、最低限の家事や自分自身の世話ができない、趣味や好きなことくらいはやりたいのにどうしてもできない、買い物に行けないetc...

そういう、本来の元気な自分ならできるけど、うつ病などの精神疾患由来でできなくなってしまったこと、いうなれば「デバフがかかってしまった状態」で制限されてしまったことは、運動で体が整うことでできるようになる。
単純に体力がついて行動できるキャパが増えるんだろうし、ホルモンがどうとかもいろいろあるんだろうけどよく知らないから余計なことは言わないでおく。
(その辺はアンデシュ・ハンセン先生の「運動脳」とかを読むといいかも。)

これは私が運動習慣に期待した効果のうち、「⑤慢性的疲労感で何もやる気がしなかったのでエンジンをかける」に対しての効果ではあったけど、「③運動すればメンタルが強くなる」とはまた別の話なんだよな。

真面目気質だと心身の不調のせいでできないことを自分の至らなさとして自責する傾向があると思うので、運動して体が整ったことにより身の回りのタスクが自分でできるようになって、少なくともその点については自責しなくなる、だから自己肯定感が上がる、という意味ではメンタルに良いと言えそうではあるけど。

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「メンタルが強くなる」をどう定義するかにもよるけど、私の場合は、

  • ・ストレス耐性が強くなる
  • ・悪意をさらっとかわすことができる
  • ・理不尽な状況に冷静に対処できる
  • ・傷つきにくくなる
  • ・悩みにくくなる
  • ・不安に陥りにくくなる
  • ・ポジティブ思考になる
  • ・いい意味での鈍感力がつく
  • ・些細なことでくよくよしない
  • ・自己肯定感が高くなる
  • ・言いたいことがはっきり言える


…的な感じだと思っていて、筋トレすることで上記のような人格になることを少し期待していたので、正直そういった効果は運動にはほぼ無いと言わざるを得ない。

相変わらず、嫌なことがあればずっと引きずるし、人と会話した後はずっと脳内反省会してるし、嫌なタスクがあるとそれを知った日から何も手につかないし、理不尽な言葉や要求のボールが飛んできたら頭が真っ白になって何も返せないし、常に何かしら自責しているし、常に何かしら不安だし。

全部憶測で言うけど、筋トレや運動で「(上記に挙げたような意味で)メンタルが強くなった」という人は、おそらく一時的な高揚感による気のせいか、元々の気質がそっち寄りだったというだけなんじゃないかなぁ。
運動不足やストレス等でかかっていた”デバフ”が筋トレで取れただけなのでは、と。
もしくは、人によっては見た目が大きく変わったりするから、それで周囲との関係のパワーバランスが変わったことにより自信をもって振る舞えるようになった、それを「メンタルが改善した」と認識しているとかかな。

めちゃくちゃ偏見で言いますけど、そもそも良くも悪くもメンタルが強い・傷つきにくいタイプの人ってあまり運動とかしてないイメージがあるんですよ。
筋トレしてる人って繊細だったり、真面目だったりする自分の防壁としてトレーニングしてる人が多そうで、その元々の気質って深いところでは変わってない印象があります。

体の筋肉を鍛えても心の筋肉は鍛えられない、別物というか。
心を鍛えたいならやっぱり考え方自体を変えるトレーニングを日常的に意識するとか、色々な意味で「心臓に毛が生えた」ような人たちの中で揉まれて渡り歩くような生活をする方が効果的なんじゃないかなぁ…と。
そこまでしてメンタル強くする必要がそもそもあるのかという話なんですが。
最近は弱メンタルの人に対する理解が昔よりもあって、生きやすくなっている面もあると思うので。

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結局何が言いたかったのかというと、元々の気質はそう簡単に変えられない、という当たり前のことに気づいただけなんですが、ちょっと世の「筋トレ万能説」が行きすぎている気がしたので、現状の自分のリアルな実感を記録しておきたいなぁ、と思っての乱文・散文でした。

結論、運動で心身のデバフは取れるけど、バフはかからない。
言い換えると、心身の”不調”は良くなるけど、現代社会で生きやすい”人格”になったりはしない。


#メンタル #健康 #自分語り #めんどい思考
自分のこと嫉妬深いとか僻みっぽいと思ってたけど、単にものすごく負けず嫌いなだけなのかも。

じめっとしてるから畳もう。

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人の持ってる成功、豊かさ、才能は一通り羨ましくなって悔しくなるけど、そこを自分が取って代わってやりたいとか、人を蹴落としてまで自分が上に行きたいとも思わないし、たとえ嫌いな人でも不幸になってほしいとか失敗してほしいとは思わない。
というか自分が嫌いな人でも他から総叩きにあってたりすると同情してしまうんだよな…。
昔から「ざまぁw」みたいな感覚がほぼ全くない…。お人好しなだけかもだけど。

多分8種体癖だと思う。
めんどいほどに負けず嫌いなんだけど競争はほんとに大嫌いという。
…じゃあもう何と戦ってるんだろう???


#自分語り #めんどい思考
もっとストーリーのある絵が描きたい

絵を描くのをゲームをするくらいの気楽さで習慣にできるようにしたいと常々思っているのですが、今年は少しそれに近づくことができたと思います。

私が絵を描く時に腰が重いと思ってしまう理由っていろいろあるのですが、大きいところでいうと

  • ①練習のために描くのをもったいないと思ってしまう(=引き出しが増えない)
  • ②描きたいもの(あるいは自分の世界観)がこれといってない(=目的がない)


最近の理由はこの辺だと思っています。
少なくとも今は個人サイトのみの活動で、人の反応や数字などが心理的な枷になることはほとんど全くと言っていいほどないです。

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描くのは楽しいんだけど、いまいち動機づけがないのかな。
ちょっと調子のいい時期を過ぎると、「結局描いてどうするんだろうオバケ」がやってくる、という堂々巡りを長年無限ループしてしまっています。

それでいよいよ、「生きてる意味ってなんだろう」って考えても考えなくても結局生きるしかないのと同じで、描く意味なんて考えずに描くしかないのかもと思い至りました。
できそうなことは、考える暇がないほど当たり前の習慣にしてしまう(①の解決)か、描く動機づけを強くする(②の解決)なのではと考えました。

①はジェスドロを始めたことや、いろんな描き方を試行錯誤しているうちに、練習絵というか人に見せない絵を描くことも楽しめるようになってきたので、次は②に着手したいなと。

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具体的には、ストーリー性のある絵を描けるようになりたいです。
キャラクターデザインを練る、背景を描く、一枚絵としてのデザイン性を高めるなど、どんなアプローチでもいいのですが、描く前によく考えて描くようにしたいのです。

特に最近は、綺麗なだけの絵ならAIにも描けるんだし、その逆方向をやりたいと思うようになりました。
基本的にへそ曲がり者なので、トレンドの逆張りをしたくなってしまうというのも正直あります。

それから、自分の描いたキャラクターをあみぐるみ化したいという野望もずっとあるのですが、いつもキャラクターを手癖で描いていて、あまりデザインを拘って練ったりしないので、あみぐるみ作りもイマイチやる気がしないという悪循環が起きています。その流れも断ち切りたい。
とにかく焦ってもいいことがないというのがやっとわかったので、一つの作品を(なんなら練習でも)ゆっくり考えてのんびり構えて作っていきたいと思うようになりました。

確かに人生って限られているけど、焦っても良いものはできないので結果的に遠回りなんですよね。
以前、高速道路のサービスエリアのトイレに「時速80kmでも100kmでも到着時間は変わりません!!(=安全運転しろよ!)」というポスターが貼ってあるのを見ました。
理屈はよくわかりませんが感覚的にしっくり来た例えなので、焦った時はこのポスターのことを思い出しています。
もっというなら、時速80km出せなくてもブレーキさえ踏まなければいつかは到着できます。ブレーキ踏んでもまた走り出せればいいです。そういうイメージがしやすいので私はこのポスターがとても好きです。

逆に、ゆっくりにこだわるあまり自分のキャパを超えて完成度を追求しすぎるようになると、それはそれで描くのがしんどくなってくるのは経験済みなので、あくまでフットワークは軽く、日記とかにさらっと挿絵を入れたりするようなことは引き続きやりたいです。

…欲張りすぎ?

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それができるようになったら、あるいは順番が逆かもだけど、絵でも手芸でもなんでもいいんだけど、本や制作物の頒布など、何か形になるものを作りたい。

今まで、絵に限らずインターネット出身のクリエイターを見慣れすぎていたせいか、「好きに描く(or 作る or やる)→結果として作品や仕事になる」という流ればかりがイメージにありました。
もちろんそれも今風だし夢のある話ですが、もっと素朴な形というか、「こんな作品集を作りたいから描く、こんな仕事(活動)をしてみたいから想定して動く」というアプローチのことはすっかり頭から抜けていました。…いや、見ないようにしてただけかな?
上手くいくかはわからないけど、試してみる価値は大いにあると思います。

今更プロのイラストレーターになりたいわけではないけど、作品をインターネット上の孤島(このサイト)に載せておくだけではなく、何かしらの形で自分の絵や作品を使って現実の社会に参加(影響)することはしたいと常々思っています。

今日までそれができていないのは、技術的な問題よりも、心理的に抱えている問題の方が大きいと思っているので、ゆっくりでいいからそこに切り込んでいきたいです。

というのも、絵を描くスキルを使って何か対外的な活動をしたいと思った時に、技術的な課題があることは当然自覚していますが、それはプロ含め誰にでも言えることでいつまでも青天井な課題でもあり、「技術(画力)がこれ以上になったら絵を使って何かしていいよ」という合格ラインのようなものがあるわけではないからです。
これは絵とかに限らず、個人でできることかつ人の安全や法律に関わらないことならほぼ何にでも当てはまるのでは。(たとえば食品とかは「好きだからお店出しま〜す」はダメですけど。そんな事件がありましたね、今年は。)

また当然その逆も然りで、必ずしも技術的に優れていなければ絵を使って対外的な活動をしてはいけないということも客観的事実としてありません。
技術力どころか、魅力や個性すらないとしても、本人がやりたいと思っていて積極的に行動できるならできてしまう、行動できなければどれだけ研鑽してても一生地中に埋まっているしかないのが創作の世界なのだと個人的には思います。
(でも私は「一生地中で創作」の権化とでもいうべきヘンリー・ダーガーの生き様にとてもシンパシーを感じるので、必ずしも表舞台に出ないことが悪いとは思いません。それじゃあ報われないなぁ、とは思いますが。)

実際、絵を描いて少しでもお金を稼ぎたいというだけならば今すぐストックイラストなりコミッションするなり投げ銭サービスの利用などをすればいいだけで、インターネット社会の今、そこに参入障壁はないのです。
今の時代って、本当に言葉通りの意味で「やりたいかやりたくないか」、「できるかできないか」だけが壁なんじゃないでしょうか。
できない・やらない言い訳をさせてくれないのです。

にもかかわらず、私は長年インターネットおえかきマン以上のことができない自分にかなりのもどかしさを感じているので、そこの殻をもういい加減破りたい。
(インターネットお絵描きマンが悪いとは思わないけど、おそらく自分はそれじゃ満足できないと思う。)

来年中にそれを実現するのは正直難しいし焦ってもろくなことがないのはわかっているので、来年はその「殻を破るための何か小さな具体的アクション」にでも取り掛かりたいといったところです。
まだ、何も思いつかないけど。

…ちなみにサイト作る前の自分の日記には「Youtubeやりたい」とか書いてあったくらいなので、私の〇〇やりたいは全く当てになりませんのであしからず。。(予防線)


#めんどい思考 #創作全般 #モチベーション #自分語り
傾斜台を使うと確かに絵が歪みにくくなる、でも傾斜台をセットする一手間(1秒とか!)が確実に描く腰を重くしている。

もし大画面iPadにしてたら多分これと同じ現象が起きてたと思う。

私は機動性を犠牲にしてはいけないタイプっぽい。
完成度より機動性!即効性!

せせせせっかち!

#自分語り #制作メモ
お絵描きタイムスリップ

昔のイラストフォルダ(残ってたのはごく一部だけだけど、15年前~7年前くらいのもの。ALL二次創作)が出てきたので何気なく眺めてたらいろいろこみあげるものがあって、思わず時間を吸われてしまった。

初期のものはへたっぴだけど、描いてるキャラクターが本当に好きだったこととか、自分なりに描き方を試行錯誤していろいろ工夫していることとか、成長しているのを楽しんでいる様子とかが絵からも伝わってきて、自分でほっこりしてしまった。

この頃はモバゲータウンの日記やサークルにイラストをよく投稿していて、特に「Photoshop利用者のサークル」みたいなところが、オタクに限らずDTPやってる人とかいろいろな人とまったり交流&技術話できて楽しかった思い出。

今思うと当時ネットにいた人たちってわざわざ相手してくれて優しかったな…。

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中期は今よりもよっぽど丁寧に描いていて、デジタル的な技術力向上にも貪欲だったし、キャラクターだけなら正直今より上手いんじゃないかって思うものもちらほらあったんだけど(当時は上手くなることだけが偉い・凄いと思ってたので。。)、この頃の私はこの時期に始めてしまった某大型イラストSNSの評価が全てで、いわゆる「爆死」の悔しい思い出しかなくて、当時の絵を見てるとその感覚を思い出して胸がキュッとしてしまう。
あとはイラコンに出してもカスリもしなかったものもあったり。。
そういう”客観的指標”を、いまだにドライに切り離して考えられないので、まさか10年経っても自分の絵を見ただけでふたたび当時の流れ弾を喰らうとは…。
もうあと少なくとも5年は過去絵フォルダを開くのはやめようと思った。。

後期は現Xに高頻度で投稿して何かしらの反応を貰うことが全てだったので、仕上げもクソもない駄作をとにかく量産するのに必死で、今見ても当時の絵から何も響くものがなくて我ながら驚いた。そんな動機で、描いてるキャラクターにも失礼だ。
(厳密には仕上げ云々は、楽しく描いてるなら別にどうでもいいと今は思う派ですが…)

最初の方に投稿した絵がたまたま下手に伸びてしまったので、ずっとそのヤクを求め続けたジャンキーみたいになってたな。本当に何のために描いてるのかがわからなかった。絵どころか、何のためにここ(SNS)にいるんだろう、この人たち誰なんだよ…って時々冷静になるんですが、承認欲求はそれ以上に人の脳をマヒさせる。

中期と違って自分なりに真剣に絵に向き合ってたということもないので、当時の絵を見てもあまり伸びなくて悔しかったみたいな気持ちは皆無で、代わりに情けなくて恥ずかしくなります。。
今思えば最初にたまたま伸びた一枚も、SNSアカウントを作る前に純粋に楽しみながら描いたものなので、以降鳴かず飛ばずだったのはさもありなんという感じ。

中期~後期の承認欲求でなりふり構わない時期に生成AIがあったら手を出してた気もするので、やっぱり私はあまりこの件について偉そうなこと言えないや。。

そこからさらに末期の絵はもう一目で病んでるのが伝わってきて、見てはいけないものを見てしまった時みたいなダメージを喰らってしまった。

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末期で一つの限界を迎えた私はそれから、絵を描くこととインターネット上で何か発信することに約5年のブランクを空けます。
その時期単に私生活がキツかったというのもありますが。鶏が先か、卵が先か。
そこからどうしてだか忘れたけど、毒が抜けたのかまたふと絵を描きたくなって、当時はまだ安かったiPadを買って、その数年後にこのサイトを作って、今に至って…。

今は自分の好きなものを追求するため、自分を癒すため、自分の創意工夫や成長の軌跡を楽しむために描いていて幸せです。この気持ちを忘れないようにしたい。

こうして改めて振り返ってみると、絵を描く作業自体が嫌だった時期って殆どなくて、競わされることや評価・順位付けされることから逃れられないことと、好きなものを書けないこと、自分のペースを乱されたりゆっくり内省する時間がなくなることが嫌いだっただけで(今思えば学校の美術の授業も似たような理由で嫌いでした)、それらと絵を描くことをちゃんと切り離せる環境に身を置けばいいだけのことだったんだな、と。


#思い出 #自分語り #モチベーション #めんどい思考 #平成 #インターネット #愚か者
何のためにスケッチや練習をするのだろう

私の場合は「手癖で描けるものを増やすため」と「描くことへの腰を重くしないため」かなぁ。

ただ手癖でだらっと描いたら可愛い女の子が描けた…というのが私にとって一番癒される時間なので、そのために必要なプロセスな気がしているから。。
そんな癒しの時間をもっと日常的な行為にしたいし、そこに引き出し不足からくるフラストレーションがなるべく生じないようにしたい。

自分のために絵を描くことはただただ幸せだし、私は流されやすく丸め込まれやすく自我が曖昧な人間なので、自分のために描くことは自分が自分である状態を繋ぎ止めておくための行為のような感じがする。

いつも「上達を追い求めるとダメになるから好きなものだけ描くのがいい」というところに行きつくんだけど、その好きなものだけ描くためには結局「何が好きなのかインプットする作業」と「好きなものを一番好きなタッチで描くにはどうするべきなのか模索する作業」が必要だから、やっぱり日ごろの練習(素振り)は必要…に着地する。

だから練習に時間や手間をかけるのは無駄なので、変に凝り性発動してドツボにハマる癖が出ないようにしなくては…。今またそうなりかけている気もするので。

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サイトの新デザインはもう完成したのに、トップ絵が描けなくて本当に困っているよ。早くお披露目したいのに。
私は本当に、「使い道のある絵」が描けないというのがこの件でよくわかった。

自サイト用の素材ですら描けないんだから、コミッションとかそれ系はもう絶対無理だなぁと。
前から90%くらいその自覚はあって、もともとやる気はなかったけど、これで100%確信した。

前半でも言ったけど、ただ描きたいときに描きたいと思ったイメージを描きだす行為そのものに癒しを感じるために描いているんだなほんと。
私はなまじ感受性が強いから創造に悦びを感じることはできてしまうけど、私の創造で何か社会に付加価値を生むことはない。これを才能がないというんだなぁ。
やっぱ占い師さん当たってるわ。(私の人となりや反応を見て言っただけと思うけど。)

別にそれでいいので、欲しいもの(癒しの時間と自分の成長を感じる悦び)を得るために、できることをできる方法でやればいい。
たまにステップアップに挑戦するのもいいけど、深追いはしたらダメなんだ。

自分はリングフィットで毎日5分筋トレして心身共に健康で気持ち良くあることで十分幸せなので、バキバキの筋肉つけたりモデル体型になりたいわけじゃないのと同じ。
凄く素敵な絵はバキバキの筋肉なんだ…。
羨ましくても、私の目指すべき道じゃない。
他にもやりたいこと・やらなきゃいけないことがたくさんある。

これを向上心がないと取るか、足るを知ると取るか。

私は自分が幸せで無理をしていなくて心地よいことが一番大事だ。


#モチベーション #創作全般 #めんどい思考 #自分語り
「好き」と「良いな」を混同するから自分を見失うんだぞという話

「好き」と「良いな」は別物である。
最近読んだある本に書いてあった言葉です。
自己啓発本とかそういうものではないので、これ以上掘り下げるわけでもなく、本当にさらっと書いてあった一文でした。

それでもこの言葉、というか物の見方が私の中で妙に刺さってしまって、この2週間くらいこのことについてずっと意識してしまっていました。

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それで、あくまで自分の場合ですけど、「好き」と「良いな」の違いについて少し整理してみました。

「好き」なものは…
  • 心を直接握られるような感覚になる
  • 自分の中(心の宝部屋)への侵入を許す感じ
  • 好きであることをやめられない(一時的に離れてもまた戻ってくる)
  • 身体的な反応が出る(私の場合、ため息が出たり、困り顏になってしまうので自覚しやすい。特に可愛いものには「なんでこんなに可愛いの!」という怒りに近い感情も湧いたります。キュートアグレッション?)


「良いな」と思うものは…
  • そのものが持っている(自分の好みではなくても)魅力的な部分を認める、リスペクトする
  • そのものの(社会的な?)成功や人気を認める、リスペクトする
  • そのものに掛けられた手間や努力などを(自分にとってはあまり有意義に見えなかったとしても)認める、リスペクトする
  • ただし心の宝部屋の中に入れるほどではない


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たぶん、これを読んで当たり前すぎて何言ってんだ…?って感覚になってる人もいると思います。
でもそういう人は恐らく他人との心の境界線(バウンダリー)とか、自我がしっかりしている人です。

私の悲劇は、この好きと良いなを混同するから起きることが多いのだと思いました。

私は物事にたいして批判的に見てしまう方で(争いが苦手なので表立って言わないですけど)、これには様々な要因があるとは思いますが、そのうちの一つは多分自分の中で「好き」と「良いな」の線引きが曖昧だったことに起因するのではないかと思いました。

つまり、「これを”良い”と認めてしまったら、自分の心の宝部屋(好きゾーン)に入れることになってしまう…!けしからん!防御(批判)しろ…!」という感じだったのかも。

この感覚は物に限らず、人に対しても発動します。ほんと、失礼な話ですが…。
流行りものをくだらないと思う心理とかもここですね。

あと、絶対に手に入らない(あるいはそう見えるもの)への嫉妬心なんかも、これに少し通じるのかもしれないです。
「(凄く好きで欲しいのに)心の宝部屋(好きゾーン)に入れられないの?じゃあ、もう知らん!」ってな感じでしょうか。
これは何らかの方法で一部でも自分の中に取り込めると結構解消します。
例えば、絵に描くとかね。

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メンタルが弱ってる時なんかはこれが逆方向に作用にします。
どういうことかというと、心の宝部屋(好きゾーン)の関所が機能不全になって、(上でリストに挙げたような)「良い」感じの要素を持っているものを何でもかんでも「好き」なのではないかと錯覚してしまうようになります。

「流行っているから私も取り入れなきゃ…」、「今どき〇〇くらいしてないと…」。
口先が上手い人(一般的に魅力的=良いとされる要素ですよね)に丸め込まれたり、「好きなことをやろう!」と扇動されて大して好きでもないことをやっていこうとしたり、魅力的な人の影響を受けて所作を真似して自分らしさを見失ったり…。

昔、ロンドンハーツという非常に下世話な番組で(調べたら今でもやってるのね)、有吉さんがグラドルの手島優さんに、「お前は他人の良い所取りばっかりしようとしてるからダメなんだ」的なことを(うろ覚えですが)かなり厳しい口調で言っていて、その当時も凄くぶっ刺さってしまったんですが、ふとそれを思い出しました。

このへんの感覚、うまく言葉で説明できてなくてアレなんですが、とにかく自分の中ではずっと探していたピースの一つがはまった感覚なのです。
1割くらいは伝わって共感を呼べれば嬉しいのですが…。

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まとめ。

【トゲトゲ期用】
人や物事の良い面を認めても、自分の世界観(心の宝部屋)は崩壊しないから大丈夫。もっと優しく生きよう。

【ヘロヘロ期用】
ちょっと良さそうに見えるくらいのものにいちいち惑わされるな。自分の積み重ねてきた歴史と身体反応を信じろ。


#めんどい思考 #自分語り #メンタル #創作全般
アナログ日記の話
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最近またアナログノートに絵日記をよく描くようになりました。

このノートは2019年から付けているもので、とりあえず何でも書いていい日記みたいなやつです。

当時、自分の考えていることをうまく言語化できなかったり、自分が何を楽しい/好き/良い/やりたい(あるいは嫌だ、やりたくないなど逆もしかり)などと感じているのか自分でよくわからないことがつらくて、自己対話のために始めました。(今でもまだそれらのフシはありますが…)

あと当時は絵を描くことを結構長い間やめてたので、なんでもいいからまた挿絵とかを描きたくなって。

最初の方はミドリMDノートを使っていたけど途中からマルマンクロッキー帳になり、これで18冊目ももう終わろうかという頃。

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気楽な絵日記用途にはクロッキー帳SQ×フリクションボールゾーンテクノロジーの組み合わせが、個人的なベストコンビということに落ち着きました。
特にクロッキー帳は絶妙な大きさも書き心地も潤沢なページ数も全部好きで、もう他では代えが効かないと思ってます。綴じノートと違って失敗したら破り取れるし。

着色する時はフリクションカラーズか水彩色鉛筆を使うことが多いです。楽なの大事。
フリクションボールは意外と耐水性があるのでちゃんと乾かせばそれら水性画材の主線として案外いけます。消しゴムかけておくと尚可。絵日記ならこれで十分。

気が向いたらこんな風に挿絵を入れてるし、気が向かない時は殴り書きの愚痴ならまだいい方で、数か月何も書いてないこともよくあります。
↑はこれでもかなり気が乗ってる部類。

このノートは〇〇ノートにしよう!とか、綺麗にイラスト入れよう!とか思うと絶対続かない人なので、「マジで何でもいいからここに吐き出せ」という形にしたのが合ってたのかな。

写真を貼ったりシールやショップカードとかも自由に貼ってるんですが、やっぱりできることなら自分で絵を描いた方がいい。
後で見返した時の楽しさが段違いなんですよ。不思議だよね。


#絵日記 #アナログ #画材 #自分語り #スケッチ #水彩色鉛筆 #アナログ日記
近況とか、ダイソーの電子メモパッドの話とか
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8月全然更新してなかったね。てがろぐの使い方を忘れそうになる…

ダイソー(THREEPPYかな?)の電子メモパッドがとっても楽しい!
色もピンクで可愛いし、これが500円とは凄いなぁ。ざっくりですが筆圧感知までしてくれます。

アンドゥも消しゴムも一切できないので失敗したら全消ししなくてはならず、らくがき用にしてもメモ用にしても若干不便ですが、そのくらいの方がかえって楽しい部分もあります。
(私は”不便益”という概念が結構好きです。)

恐らくセット使い前提であろう同色同素材のスタンドも500円ってのはちょっと(高くて)ビックリですが、スタンドは相対的に高いだけあって角度調整ができたり、堅牢な感じでプチプラとは思えないくらいに作りがしっかりしてます。

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あとは最近髪を切りました。20cmくらいバッサリと。
もう少し伸ばしてヘアドネーションしたかったけど、体質的にそれ以上はもう伸びないようなのであきらめました。

ここ数年、印象がガラッと変わるくらい大きく髪型を変えたい(バキバキに明るいカラーにするとか、ピンク髪にするとかの)願望がずっとあったのですが、美容室嫌いということもあってずっと維持しやすい暗色ボブ~ロングでした。

でも通えそうな美容室も見つけたことだし、もう少し髪に手を掛けてあげようかなと思った時に、

・1.5か月に1回切りに行くこと(ショートカットにする場合)
・3か月に1回3時間座りっぱなしになること(カラーをする場合)

どっちがマシかなと思ったら前者だったのでカラーをしなくてもオシャレっぽく見えそうなショートにすることにしました。
自分が最近素敵だと思う女性がショートばっかりだったのと、身近な女性を見てもバッサリ切った人は大抵切った後の方が素敵になってたのも理由。
あと私ちょっとだけ自然派志向入ってるのでカラー剤に抵抗あったり…。単純に染みる体質というのもあるけど。

「ホラン千秋さんみたいなショートにしてください!」ってオーダーしたら「ホランさんってひとくちにショートといっても結構いろんな髪型してますけどどれですか」と言われてしまい、あんまり違いのわかってない非お洒落人間であることが露呈しちょっと恥ずかしくなったり。そこはこう…似合いそうなやつ適当に見繕ってくれ…!

結果、ショートは私にはいいことづくめでした!
髪が抜けやすくて毎回洗面台がホラーになってたのも軽減されたし、掃除機かけてもかけ終わった瞬間に新しい髪の毛が床に落ちてることもないし。(猫飼ってる人の気持ちがたぶん少しわかる…)
メイクを濃いめにしてもショートヘアだとバランス取れてトゥーマッチな感じにならないのも気に入ってます。

女らしい恰好もメンズっぽい感じもどっちもいけるし。私のライフスタイルだと今のところデメリットが何もない…。涼しいし、すぐ乾くし…。
ロングヘアじゃないと似合わせが難しくなる服(ロリィタ服とか、美人百花系の服とか)を自分で着ることへの興味・執着が完全になくなったのも大きいかな。

美容師さんの腕がいいからかもだけど、何もセットしなくてもそれなりにまとまってくれるので、家にいてダラダラしてる日でも前よりグータラ感がなくなった&そのままコンビニとか行けるのも嬉しい。前はオフの日は適当にひっつめてて(それが似合わないタイプだったから)本当に貧乏くさく見えて自己肯定感下がってたので…。


#100均 #らくがき #買い物 #自分語り #アナログ #電子メモパッド #不便益
頑張っちゃダメだけど、横着するのもダメだ 〜最近のお絵かき事情〜

どうしても横着してしまう性格なので、昔から絵の練習のためだけに描くことをしたくない→練習をどうにか味付け&仕上げして作品にしたい(せっかく描いたんだから誰かに見せたい)とか思ってしまってたのがいろいろとうまくいかない原因だったかもしれない。
合理的と言えば合理的なのかもしれないけど…。今流行りのSDGs的だし。

練習は練習と割り切れるようになってきたものの、今度は「形をとること」や「アイデアの引き出しを増やすこと」や「印象を掴むこと」などを全部まとめて1回のスケッチで練習したいと思って詰め込むから大変&混乱してすぐ投げたくなる。

ようやくここまで経て、デザインならデザインの参考、ポーズならポーズ…と、取り入れたいことを意識することでそのために必要な最小限の要素だけを小分けにして練習(スケッチ)をすればいいということがわかってきた…。
例えばデザインをインプットする目的ならポーズ(モノなら角度)は付けない、配色をインプットしたいなら線画は拘らないなど。

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こうやって取り入れたい要素を切り分けしないと、ちょっと良いと思った作品が現れるたびにその人の作風を愚直に模倣するだけになって絵柄迷子になったり、はたまたリアリズム主義(写実的な画力の向上=絵の魅力の向上という安直な思考)に傾倒したりして、次第に「自分が」絵を描く目的を見失っていく。
お絵かきAIなんて出てきた今となってはこの「自分自身が描く意味・目的」を見失うことはかなりのモチベーション喪失になってしまうわけで。

まぁ時間が経てばまた自然と描きたくなりはするんだけど、その頃にはお絵かきの勘みたいなものがすっかり衰えてて、また勘を取り戻すために学び直し…と言う負のループ。これをどうにか断ち切りたい、ゲームをしたり本を読んだりするみたいに、頑張らずとも当たり前のように絵を描き続けていられるようになりたい。

「描きたい時に描けばいい」、それはそうなんだけど、その描きたいときに描く力が衰えていて思うように描けないことがストレスになったらだめじゃん、と。
まぁ気持ちがリフレッシュして学び直しの工程自体を新鮮に楽しめる時も結構多いので、筆を休めることが一概に悪いことばかりとも言えないのですが。

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何かをスケッチ(デッサンという言葉は重いのでスケッチという言い方が好きです)するにあたり、インターネット上にあるものを資料にすると、近くに気が散る要素が多すぎる&いつまでもゴールのない道を走ってるみたいで達成感がないので、最近は好きな写真集やフリーペーパーなんかを黙って1冊スケッチする感じにしています。
紙形式の資料なら日々描き進んでる手応えが目に見える形でわかるし、大抵は一冊の資料の中でテイストが統一されているので共通する好みとか世界観とかも掴みやすい。

何を描こうかなって探している時間に気持ちが萎むことも非常に多いので、じゃあ何も考えないで済む方法はないかなと思いまして。
黙々と自分の好きな世界だけに浸れるので、pinterestとかの「流れてくる」中から好きなものを選別しつつ参考にするやり方より私には合ってるかな。

とりあえず「お絵描き筋」さえ衰えなければいいと思ってるので、描く手を止めない方法(そして練習自体が目的になったりして絵を描くのがつまらなくならないような方法)を模索中です。

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この文章はiPadにBluetoothキーボードを繋いで書きました。変換にややストレスがあるものの、案外いけます。


#制作メモ #自分語り #モチベーション #AI #絵の練習
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