Memo

No.199
AIのおかげで絵を描くのが馬鹿らしくなってきた話

個人的に好きで追っている動画投稿者さんが、動画内でAI生成と思われるイラストを使用されるようになりました。(動画のリンクは文末に。)

最初はイラストレーターに外注するようになったのかな?と思ったのですが、

  • 絵があまりにもピンポイントに動画の内容状況に合っている。しかしその割には、状況設定に対して微妙に容姿や服装などが曖昧(オーダーメイドのイラストとしては詰めが甘いのに、素材にしては汎用性がなさすぎる)
  • いち個人が頻繁に投稿しているうちの一動画に利用するためだけに外注したのだとしたら、絵のクオリティの高さ(リアルタッチで、レタッチ風とはいえ背景まで描いてあり、テクスチャ処理なども凝っている)に対して枚数が多すぎるので予算がかかりすぎているように見受けられた


などの点で、途中からAI生成の絵であることに気がつきました。
一度気づいてしまうと、リアル系の絵柄なのに顔が歪んでたりして「あぁ、AIだな」とすぐにわかるのですが、最初は全く違和感なく受け入れてしまいました。
(私はSNSをやってないのでAI製のイラストを見慣れていません。AIイラストブームをタイムラインなどで追いかけていた人ならきっと一目見ただけでもわかるのだと思います。)

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その動画で使われていた絵は重厚かつちょっと水彩風のアクセントが効いた赴きあるタッチで、いい絵なんですよね。どうやってAIに指示したんだろう。
シリアス系のアドベンチャーゲームなどのスチルにでも使われそうな雰囲気で、例えば私は「流行り神」とか「シュタインズゲート」とか「グノーシア」なんかの絵柄を連想しました。

素人考えでは、AI(コンピューター)はデッサンを完ぺきに描いたりする方が得意で、雰囲気を出すのは人間の方が得意なんじゃないかと思っていました。
でも実際にAI生成された絵を見ていると、”ぱっと見の雰囲気がすごく良くて、よくよく見るとデッサンが狂っている(こともある)”…という、”雰囲気重視”の思考をしていて、学習していくプロセスなんかもすごく人間臭いなと思ってしまったのです。
人間もほとんどの人がまず好きな絵の雰囲気をまねることから入って、デッサンの正確さから入る人なんて殆どいないと思うので。

表題の話について。

私はAI生成イラストが話題になるよりも前から「上手い絵」とか「美麗な絵」、「商品価値のある絵」を描くことには既に見切りをつけていて、「描いていて自分がいかに心地よいか」とか、「手描きのゆがみ感や筆致の拙さやラフさを自分で愛でて楽しむ」とか、「単に体験や頭の中のイメージの整理」とか、そういうところに自分が絵を描く価値を置いていました。
ですので、AIに個性や仕事が奪われて~とかそういう心配はしていないというか、そもそも自分はそういったことの蚊帳の外にいる人間なんだと思ってます。(要は自己満足で絵を描いているということです。)

それでもAIの描いた絵の存在に妙な居心地の悪さというか、自分のアイデンティティが蝕まれていってしまうような焦燥感を感じてしまうのは不思議ですね。これまで”頑張ってきた”という自負から来るちっぽけなプライドなんでしょうか。昔は頑張って絵を描いていた時期もあったので…。
今現在私の場合は、作風的にも実務的にも、AIと競合していることは殆ど何もないわけですから。
一つ言えることは、”人間臭さ”のある絵を描いて楽しんでいたのにAIが想像以上に人間臭い絵を描いてきたことに打ちのめされた、というのはあると思います。上手い下手の問題ではないのです。
今はまだ自分や自分の好きな作風がAIに模倣されていないので冷静でいられてる部分も大きいと思います。

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私の好きな画家のひとりに永沢まことさんという方がおられました。(今年お亡くなりになっていたようです…。)
この方の著書の中に、 ”「光と影で描く西洋絵画は写真に敗北した。”光と影”が本当に絵の根本を支えるものであるなら、写真の登場程度で揺らぐことはなかったはずだ」” という趣旨の一節があります。
私はこれを“光と影”(リアリズム)は絵のコアだと信じられてきたけど、実際には単なるオプションに過ぎなかったのだというように理解しているのですが『光と影』の部分を、『すべての工程を人間が考えて描くこと』などに読み替えると、今まさにそれと全く同じことがAIとデジタルイラストの描き手の間で起きているように感じられると思いました。
(それ以前にフォトバッシュなどが登場したときも同じような流れがあった記憶がありますが、それでもフォトバッシュやコラージュなんかは一部の技術を持った人にしか扱えないものでした。AIによるイラスト生成はあまりにも簡単で誰にでも行える点で写真登場の衝撃と似ているのかなと思います。)

リアリズムがかつては(少なくても西洋絵画では)絵の必須条件だったのに、今はそのように描くこと自体が好きな人以外には写真で事足りてしまうのと同様に、あと10年くらいしたらもう”全部自分で描くのが好きな「物好き」”以外にはAIでいいというか、AIを使わない理由がない、AIで当たり前、AIを恐れるという感覚がよくわからないという雰囲気になっていくんじゃないでしょうか。

例えばですが、洋服なんかも買った方が早いし出来もいいので今ではほとんどの人が当たり前に大量生産品を買いますが、昔は手作りするのが当たり前だったし、今でも一定数自分で作る方が好きな人はずっといるわけです。
そんな風に、AIを使わないことで絵を描くことは時代遅れなことになる、というよりも、ちょっと贅沢な趣味みたいなポジションに落ち着くのでは。

少し話は逸れますが、永沢まことさんは線描で一発書きすることで出る心のゆらぎや勢いをダイレクトに絵に表すことに拘っており、私もその思想に強く影響を受けています。

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そんなこんなで、これまで私は『簡単にやり直しと試行錯誤ができること』 『道具の準備片付けが不要で作業場が散らからないこと』 『モニター上での見栄えが良いこと(ネットが好きだったので重要だった)』 などの点が気に入ってデジタル絵を描いてきたのですが、絵を描いてきた時間が長くなるにつれて、また時代が変わっていくにつれて、それらのメリットに絶対的にこだわる必要もなくなってきたと感じています。
これからはデジタル絵よりもアナログ絵にシフトしていくのも魅力的かもしれない思い始めてきました。

なんとなくですが、これからは商業作品用やグッズ用、動画用などの”実用的”な絵はデジタル+AIでより効率的かつ美麗に描かれるものが増えていき、趣味や自己満足などのために描く人はその唯一性や描くプロセスそのものを楽しむためにアナログ回帰していく人が増える流れが来て、絵の使用目的別に制作方法が二極化していくんじゃないかなぁとも思いました。
「同じものが2つとしてない」ことや、「実物がそこにある」ということに価値を見出す人が今後ますます増えてくるのかなぁ、と。ハンドメイドが流行るのにも通じているような。
NFTとかはなんかキナ臭いので知りません。

あと、AIの描いた絵を見るに、コンセプトアートやソーシャルゲームのキャラクター絵みたいなのは得意そうだけど、線がハッキリしたシンプルな絵は苦手そうでしたね。(足し算の作風は得意だが引き算の作風は苦手とも言えそう)
ですので、単純明快なタッチやアイデア勝負が多いキャラクターグッズとかのデザインなんかはまだしばらく人間のフィールドなのかなぁという印象も受けました。

【追記】>>112


#創作全般 #モチベーション #AI #めんどい思考